いまや世界中で大人気となっている寿司。
寿司といってもいろいろありますが、寿司=江戸前寿司(握り寿司)といっても過言でないほどの代名詞となっていますよね。
そんなわけで今回は、「すし」の歴史、特に江戸前寿司(握り寿司)誕生の歴史について書いてみたいと思います。
「すし」は東南アジアが起源
「すし」のルーツは、東南アジアの山岳地帯に住んでいた民族が、入手困難だった魚を長期保存するための「保存食」として編み出したものです。
これは、魚を蒸した穀物で乳酸発酵させた発酵食品でした。
魚を穀物(デンプン、日本では米飯使用)の中に漬け込むと、乳酸菌の作用で乳酸が作り出されて酸っぱくなるとともに酸によって雑菌の繁殖が抑制されます。
その間に魚の動物たんぱく質が自己分解してうま味となり、長期保存性とうま味の増した発酵食品「すし」ができるのです。
これは魚だけ食べ、米飯は食べません。
このような「すし」が中国を経由して日本に渡ってきたと考えられています。
これは日本では「なれずし」と呼ばれています。
日本での「すし」の発展
「なれずし」は奈良時代には知られており、朝廷へ重要な貢ぎ物や租税として納められていました。
このため庶民は「なれずし」をほとんど食べられなかったと考えられますが、日本人に酸味のある食べ物が根付いていく下地となっていったのではないでしょうか。
室町時代になると、「生なれずし」や「半なれ」という「すし」が生まれました。
これは、「なれずし」よりも漬ける期間を短縮することで、発酵が不完全になるため飯は酸っぱくなり過ぎず、魚と飯の両方とも食べられるというものでした。
時代が下るとともに酒や酒粕、糀を使用したりと、「すし」の発酵を早めるため様々な方法が用いられていきます。
人々は「すし」をできるだけ待たずに早く、早く食べたかったのです。
江戸前寿司(握り寿司)誕生
江戸時代になると、酢の醸造技術が発達し入手しやすくなったこともあり、発酵させずに酢で酸味を加えて食べる「早ずし」が誕生しました。
「早ずし」は、大阪では、箱に酢飯、魚介類を入れ蓋をし、重石を置いて数時間~一晩後に食べる「押しずし(箱ずし)」になりました。
そして、その「早ずし」をさらに早く食べられるように・・・ついに江戸前寿司(握り寿司)が編み出されます。
酢飯にネタを乗せて握ったスタイルの「すし」の登場です。
発明したのは、諸説ありますが、よく知られているのは寿司職人の華屋与兵衛です。
初代与兵衛は押しずしを作っていましたが、時間を短縮して魚のうま味をより生かすために握りずしの方法を編み出したのだといわれています。
酢飯に下ごしらえしたネタを乗せて軽く握っただけで食べられる、
その新しい即席で提供される「すし」への衝撃は、「妖術と いう身で握る 鮓の飯」という当時の句に表われています。
最初は、気軽に立ち食いできる屋台としてスタートしましたが、たちまち江戸っ子にもてはやされ、まねる同業者が急速に市中にあふれていったそうです。
当時の人気ぶりは、次の句に表われています。。
「こみあいて 待ちくたびれる与兵衛鮨 客も諸とも手を握りけり」
名前について、発売して人気が広まる中で「江戸前寿司」と名付けて売るようになったそうです。
「江戸前」とは江戸城の前の海で獲れた新鮮な魚を指します。
また、「寿司」という漢字は、江戸時代に縁起担ぎで作られた当て字です。
なお、当時の江戸前寿司は現代の寿司の2~3倍ほどのおにぎりサイズの大きさで、ひと口では食べられないので2つに切り分けて食べたようです。
これが名残りとなって現在でも一皿二貫という提供の仕方で寿司が出てくるそうです。
また、小腹が空いた時におやつのような感覚で食べるスタイルであり、提供スピードも併せてまさに江戸前寿司はファーストフードと呼べるものでした。
一方で、当時すぐに高級路線のお店も出てきたようです。
江戸前寿司が流行った背景
ところで、江戸前寿司はなぜこんなにも人気が出たのでしょうか?
それには、単純に「おいしかったから」以外にも次のような背景があったと考えられます。
・江戸湾や近海からたくさん獲れる新鮮な魚介類
江戸湾は多くの河川が流れ込み、そのため栄養豊富で豊かな漁場でした。さらに江戸の人口増加に伴う生活排水の増加も魚を増やす要因のひとつであったそうです。
江戸という巨大都市の目の前の海で新鮮な魚をたくさん調達することができたことで、江戸市民は魚が頻繁に食べられるようになり食生活に定着しました。
「三日魚を食わねば骨がバラバラになる」が口癖というほど魚が好きであったそうです。
江戸前寿司は、魚をいかにしておいしく食べられるようにするか、下ごしらえを極めた料理であり、手軽でありながら魚料理の究極形のひとつだったのでしょう。
・江戸っ子の気質が生み出した庶民文化
江戸っ子は「粋」といいますが、特徴のひとつに気が早く、またおいしい食べ物に対して惜しげもなく銭を使う人たちだったようです。
せっかちとファーストフード、食通とグルメ、どちらの要素をも含んだ当時の江戸前寿司は、江戸っ子にブレイクしたのでしょう。
なお、そのような気質が生まれた背景には、身近に存在した武士たち権力者への対抗心だとか、大火事が多過ぎて金を貯めて資産を持っても仕方ないという意識だとか、
いろいろあったといわれています。
・外食ブーム中であった
江戸時代はある種現在の東京と同じで、武士たち権力者の衣食住を賄う生産活動や
都市づくりと(頻発する火事後の)再興のために江戸には人手を必要しており、外部から単身者が出稼ぎに集まってくる時代でした。
現代人もそうであるように、食事は外食でさっと済ませたい、という需要が大きかったのです。
男女比率も100:54(1721年)ほどで、生涯独身で終わる人も多く、それもまた食へ向かう要因となりました。
江戸前寿司のネタ
当時のネタはどのようなものだったのでしょう。
当時は冷蔵保存などない時代だったので、生のネタはありませんでした。
コハダやサバなどを締めたもの、煮アナゴや蒸しエビなどの火を通したもの、卵焼きといった、煮る、蒸す、ゆでる、ヅケ、昆布締め、酢洗いなど下ごしらえを施したものが使われていました。
ちなみに日本人の大好きな高級魚マグロは、当時は「下魚」といって下等な魚介類としてみなされていました。
私たち現代日本人からすると不思議ですけど、当時の人々はあっさりしたものが好きで、マグロのように脂の多いものはまずいと感じていたようなのです。
特に脂肪の多いトロは、赤身よりも腐りやすく身崩れや臭みがあるため、捨てるか畑の肥料などにされていました。
魚が好きな猫でさえまたいで通るといって「猫またぎ」という呼ばれ方もされていたといいます。
また、マグロはシビとも呼ばれていて、不吉な名を感じさせることも不人気の理由だったといわれています。
ちなみに下魚には、カニやブリ、フグも含まれていました。
しかし、江戸時代後期頃にマグロの大漁があり、処分に困っていたところ、恵比寿鮨が赤身で「ヅケ」を試したところ意外に人気が出て、以降は代表的なネタとなったそうです。
江戸前寿司(握り寿司)誕生の歴史をご紹介しましたが、いかがだったでしょうか。
もともとあった「すし」とはもはや別物の江戸前寿司(握り寿司)は、ある時突然生まれたわけではなく、時代が移る中で「すし」が少しずつ進化して生まれたものでした。
しかし、「すし」が江戸前寿司に進化した時、たしかに爆発的な人気が生まれ、今に至るまで多くの日本人に愛され続け、世界にも人気が広がっているすごい料理なのです。
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