昔の日本人は肉を食べていたのか食べていなかったのか? 日本の肉食の歴史

食べ物の歴史

日本人の肉を食べる習慣って、開国した明治時代になってから始まった、というイメージはありませんか?
なんとなく、仏教の影響で肉は食べずに魚を食べる食文化だった、と。
ほんとうのところはどうだったのでしょうか?
今回は、日本の肉食の歴史について書いていきたいと思います。

仏教が伝来し肉食禁止令が出されるまでは肉を普通に食べていた

旧石器時代の昔から675年に肉食禁止令が出されるまでは、基本的には肉は普通に食べられていました。(禁止対象は牛、馬、犬、猿、鶏)
殺生を禁ずる仏教が伝来し、当時の天皇たちが仏教を厚く保護したことで出されたこの肉食禁止令の影響を受けて、日本人は肉を食べなくなっていきました。
また、仏教の影響以前に日本古来の神道とその前身である自然信仰が生まれたことで、一部の動物を神聖視したり、「不浄」を嫌う感覚も生まれました。

しかし、そんなスパっと日本人がおいしい肉を食べることをやめられたのでしょうか?

肉食禁止令発布~江戸時代手前 は表向きには肉を食べなかったが実はこっそり食べられていた

肉食禁止令によって、日本人は表向きには肉を食べなくなりました。
しかし、肉食禁止令は江戸時代に至るまで何度も繰り返し発令されています。
つまりその必要があったくらい、実際には肉が食べられていたということです。

まず庶民に肉食禁止が浸透するまでには時間がかかったようです。
さらに肉食禁止を実践・啓蒙する立場であるはずの僧侶や貴族たちさえ肉食禁止令を破っていたそうです。

とはいえ、自然のものすべてに神が宿るという自然信仰・神道的考えと、
仏教の殺生禁止の思想は、たしかに日本人の考え方や感覚に影響を与え、根付いていきました。
生きている動物、とくに哺乳類を殺して食べる時、なんとなく感じる後ろめたさやためらいの感覚を日本人は持っています。
それを「穢れる」と表現する人もいます。
「穢れ」や「物忌み」の感覚は、やがて信心深い人たちやあるいは迷信深い人たちを中心にしだいに肉を食べることを遠ざけていったのです。

その一方で、肉を好む人たちもいて、「建前」や「インチキ」をもって食べてきました。
すなわち、「薬食い」といって、「滋養健康のために肉ではなく薬として食べているのだ」、といったり、獣の名称を変更し鹿肉を「モミジ」、猪肉を「ボタン」「山鯨」、馬肉を「サクラ」、鶏肉を「カシワ」と言い換えたり、ウサギは鳥の仲間だから一羽二羽と数え食べてもよいのだ」などといって、けっこう食べられています。

このように肉食が公式に禁止された後、肉食に忌避を覚える人もいれば、法律を破ってでもなんとか肉を食べたい人もいた、というのが実情のようです。

その後、転機のひとつは南蛮貿易が始まった頃にありました。
肉の食習慣のある南蛮人たちの影響を受けて、九州の方から京都や大阪の方へと徐々に肉食が広まり増えていったようです。
その過程で「穢れ」の意識が徐々に薄れていきました。

江戸時代

江戸時代になると、庶民の食文化が江戸や大阪で花咲き、庶民のグルメ時代が始まりました。
そのなか制度上は肉食が厳しく禁止されながらも、実情はどんどん肉食が広まっていったのです。
江戸時代には「ももんじ屋」という野獣肉の店があって、けっこう繁盛していました。
寺門静軒の「江戸繁昌記」によると、天保のころ(1830~1844)には、獣肉を食べさせる店がかなりあったとあります。守貞謾稿は、天保のころから肉食が盛んになり、「山鯨(猪)」の看板を出した店があったことを記しています。西方の京都では牛を「ワカ」と呼んで食べるようになっていました。

狩猟の獲物である山の獣はともかく、家畜を食べることは禁忌されましたが、これも建前にすぎず、
彦根藩の儒医香川修徳は栄養面から肉食のすすめを説き、牛肉の味噌漬けを発案、井伊家は毎年将軍家と御三家に献上していました。幕府はそれを和泉橋の病院に蓄え、一般の病人にも販売したともいいます。

歴代の将軍や大名たちは狩りを好みました。
獲物を仕留めたあとは、野外で獲物をさばいて大鍋などで煮て野宴を行なったようで、「江戸図屏風」などに残されています。

「雪の日の七輪に咲く冬牡丹」
「猪を喰うたが知れてやかましい」
「薬喰ひ人に語るな鹿ケ谷」
「薬喰ひ隣の亭主箸持参」
「妻や子の寝貌も見えつ薬喰ひ」

このような句は、肉をご馳走として好んで食べていた人たちがいることを示していますし、肉を食べる他人をうらやむ姿やこっそり食べる姿が表われています。

開国~明治時代以降

当時の幕府が外国による圧力に耐えられなくなり開国すると、日本人は肉を常食とする外国人と接する機会が増えて影響を受け、さらに肉を好む日本人が増えていきました。
開国後、諸外国は牛肉の供給を求めてきましたが、はじめ幕府は断り続けています。
牛肉の供給の確約は、国教である仏教の否定につながり、やがてそれは幕府の権威の否定にもつながると考えられていたためです。
しかし諸外国はそんなことは理解できず「友好的ではない」と怒り、圧力をかけてきました。
やはり最終的に圧力に耐えられなくなり、幕府は函館限定で牛肉の供給を認めました。
江戸から遠い場所に限定することで影響を少なくしようという政治的考えです。
ところが、一度認めると、止められなくなり、居留地の横浜に近い横須賀で牛の屠殺が行われるようになりました。
その噂はすぐに江戸の庶民に知れ渡るようになり、牛肉が町に流通するようになっていきました。
事実上幕府が肉食を、牛を食べることを認めたのだ、と。

さらに、表向きには肉食を禁止していた江戸幕府とは異なり、次の明治政府は国策として肉食を奨励しました。その背景には、イギリスが清国を侵略し半植民地化したアヘン戦争をはじめとした欧米列強に対する大きな恐れや焦りがありました。
先進の技術力に加え、背が高く屈強な欧米人の肉体を見た日本の為政者たちは、技術の導入を急ぐとともに欧米人の肉体の秘密を食習慣の違いにあると考え、彼らの肉食や卵食などを積極的に取り入れるよう国民に奨励したのです。

牛鍋屋が大流行、解き放たれた肉食の欲求
戯作者の仮名垣魯文が庶民の生態を描いた小説「安愚楽鍋(明治4年)」には、牛鍋屋が爆発的ブームになったことが記されています。
大工や左官たちが「牛鍋を食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」などと言って牛鍋を得意気に食べていたようですね。
これは既に江戸時代には薬喰いや牛肉食が下地としてあったからだったといえるでしょう。
それまで堂々と食べることができなかった肉が、ついに大っぴらに食べられるようになった、その反動だったのです。
牛鍋屋は次々オープンし、明治10年頃には東京で558軒に及んでいたそうです。

また、明治5年1月には、 明治天皇自らが肉食宣言をしています。
「我朝ニテハ、中古以来肉食ヲ禁ゼラレシニ、恐多クモ天皇無謂儀ニ思召シ、自今肉食ヲ遊バサル旨、宮内ニ御定メアリタリト云」

明治天皇が牛肉を食されたことにより、新聞が肉食を奨励するようになり、さらに肉食が広まっていくこととなりました。

いかがでしたか?
私たちがなんとなく思っていた「日本人は開国した明治時代になってから肉を食べ始めた」というイメージとは違って、日本人は昔からけっこう肉を食べていたのですね。
肉食禁止令と神道・仏教による影響を受けて表面的には肉食を忌避する一方、本当に肉食を忌避をする人もいれば法律を破ってでもなんとか肉を食べたい人もいたという、肉食に対して複雑な歴史が形作られたといえるのではないでしょうか。

Follow me!

コメント

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました