あんぱん。
それは西洋のパンをもとにしながらも、餡子が入りへそに桜の花びらの乗った日本人の舌に合う優しい味わいのパンです。日本人なら誰もが「あんぱん」を口にしているのではないでしょうか。
そんなあんぱんは、いつどのようにして生まれたのでしょうか?また、実はあんぱんが明治天皇と徳川慶喜に愛されたという話は知っていますか?
今回は、あんぱん誕生の歴史秘話をご紹介したいと思います。
あんぱんが生まれたのは明治時代
維新の「革命」がまだ覚めやらぬ明治2年(1869)、後にあんぱんを生み出すことになる木村屋の前身「文英堂」がオープンしました。
創業者は、木村安兵衛という元下級武士です。
明治維新の動乱の後、それまで徳川幕府に仕えてきた大名や武士たちは一斉に職を失うことになりました。紀州家の「江戸お蔵番」から、 江戸市中警備の任にあった安兵衛も、同様に失職しました。安兵衛は新政府が開設した「授産所」(職業訓練所)に事務職として勤めはじめます。失職した武士たちは、新時代に合う新しい商売(ベンチャービジネス)の世界へと飛び込んでいきました。
ここで安兵衛は「パン屋」という職業に出会うことになり、猛烈にパンの研究を始めました。
そして明治2年、文英堂を創業します。
彼はこの時52歳であったため、実際に文英堂を切り盛りしたのは次男の英三郎でした。ところが開店した年の暮、文英堂は火事で焼失してしまいます。やむを得ずその翌年、京橋区尾張町(現銀座五丁目)の空き家を借り、「木村屋」と屋号も改め再スタートしました。
ちなみに「一般市民に売り始めた」という意味において、「日本人として初のパン屋」は文英堂と思われます。
当時のパン作りと行きついた酒種発酵種
パンには生地を発酵させる酵母菌が必要となりますが、それまでのパンは甘酒をパン種としてつくられていました。この方法は、乳酸菌が働きすぎると酸っぱくなるという欠点があるものでした。
嘉永7年(1854)、日米和親条約が締結され、外国船が出入りするようになると、ビールが入手できるようになりました。ビールを使うことで、含まれるホップ種により甘酒種パンよりもおいしいパンが作れるようになったのではないかと思われます。明治5年に横浜にビール醸造所が造られると、パン屋も完全なホップ種を入手できるようになり、パンの質が急速に向上していきました。
安兵衛、英三郎はパンの研究を重ねた末に、酒種発酵種に辿り着くことになります。
酒種発酵種は、米と麹と水から作るのですが、酒造りのように職人の勘や手間暇を必要とする大変な作業になります。しかしこうして出来上がった酒種発酵種から作られた「酒種パン」は、酒種独自のほんのり甘い香りのパンとなるのです。
あんぱんの誕生
明治7年、饅頭をヒントにして、この酒種パンに餡子を入れ塩漬けの桜の花びらを乗せた「あんぱん」が誕生し、大評判となったのです。実はあんパンの前に、英三郎は食パンに砂糖を加えた「菓子パン」を考案して好評を得ていますので、あんパンはこれらの延長線上に生まれたものでした。さらにあんぱんのへそに乗った塩漬けの桜の花びらは単なる飾りではなく、全体の風味を引き立ててくれるもので、ヒットの一要因となったのです。
当時、パンは主に外国人向けの食べ物であり、日本人はパンをあまり好まなかったようです。
しかし、安兵衛や英三郎の作った菓子パンやあんぱんがきっかけのひとつとなって、日本人にパンが少しずつ受け入れられるようになっていく下地ができていったのでした。
明治天皇とあんぱん
さて、あんぱん誕生の翌年明治8年、明治天皇が初めてあんぱんを食されることになります。
しかし、庶民の間でヒットしたからといって、木村屋のあんぱんを明治天皇がそうたやすくに口にするはずもありません。
いったいどのような経緯があったのでしょうか?
この仲介をしてくれたのが、明治天皇の侍従 山岡鉄太郎(号を鉄舟)という人物でした。
安兵衛の妻ぶんの弟である貞助は、江戸黒門町にあった道場に通っていたのですが、この道場の師範代が山岡鉄舟でした。鉄舟が公務で多忙な時には、貞助が門弟に稽古を付けたりもしていたといいます。
そんな貞助は安兵衛の店によく顔を出していて、明治4年店に鉄舟を連れてきました。
これが木村屋と山岡鉄舟との出会いでした。
独創的な新しいパンに興味を示した鉄舟は、新作パンの試食会には必ず顔を見せ、感想を述べたそうです。
そんな中、明治天皇・皇后両陛下が東京向島の水戸藩下屋敷へ明治8年4月4日行幸する予定が立ちます。その接待で出す茶菓について、徳川慶喜の実弟である徳川昭武が、侍従の山岡鉄舟に相談しました。このとき鉄舟は「銀座木村屋のあんぱん」を強く推奨したのです。昭武はあんパンを知りませんでしたが、話を聞くうちに非常に興味を持ち「ぜひ試食したい」と言いました。
後日、昭武が鉄舟の持参したあんぱんを試食すると、絶賛して天皇献上の話はすぐに決まりました。
安兵衛や英三郎たちは、天皇家献上のための最高のあんパンを目指して日夜研究を続け、献上2週間程前からは酒種の仕込みに余念がなかったそうです。
そして明治8年4月4日をあんぱん献上の日を迎えることになったのです。
その日の様子について『木村屋總本店百二十年史』には、「あんパンは明治天皇のお気に召し、ことのほか皇后陛下(昭憲皇太后)のお口にあった。お相伴にあずかった女官たちも大喜びだったという。そして、「引き続き納めるように」 という両陛下のお言葉があったのだ。」とあります。
その夜、 吉報が届き安堵と喜びに包まれた銀座・煉瓦街の木村屋は、遅くまで華やぎ、ガス灯のあかりが揺れながらのんびり店の前を照らしていたそうです。
翌日、安兵衛親子は小石川昭武邸に招かれ、陛下より賜った御詠を披露してもらっています。
花ぐわし桜もあれどやどの
世々のこころを我はとひけり
これ以降、木村屋は実質的な宮内省御用達になりました。
「明治天皇が木村屋のあんぱんを食べた」ことで、これ以降東京中であんぱんは大流行することになったのです。
山岡鉄舟という人物なくしては木村屋の今は考えられません。
徳川慶喜とあんぱん
慶応4年の政変時、徳川慶喜は駿府(静岡県)に隠居していました。
かつては数え切れないほどの家臣にかしずかれていた生活が一変し、質素な生活がスタートしたのでした。どれだけ落ち込んでいたことでしょうか。
鉄舟は駿府訪問の折によく土産をもって慶喜を訪ねました。その中には木村屋のあんぱんも含まれていました。慶喜はミーハーなところがあったので、これまでにもパンは食べたことがありました。
しかし、この和洋折衷のあんぱんに非常な興味を示し、「うまい」を連発し、 あんぱんなるものをつくった人物について鉄舟に質問しました。
鉄舟は、銀座木村屋の二代目木村英三郎があんぱんを開発したことや、初代の安兵衛は水戸藩の領民で下級武士ながら慶喜の家臣だったことなどを丁寧に説明しました。
話に聞くうちに慶喜は、銀座木村屋と安兵衛・英三郎親子に興味を覚えました。
「現在は謹慎中のため銀座に出かけることはできないが、謹慎が解けたらぜひその親子に会ってみたい。安兵衛と英三郎によろしく伝えてほしい」と鉄舟に伝えたのです。
鉄舟は、あんぱんで慶喜を癒すことができたことを喜びました。
しかし、当時の鉄舟自身は宮中に仕える身分だったため、簡単に静岡に来ることは出来ません。そこで鉄舟と交流のあった清水次郎長(慶喜が住んでいる代官屋敷の雑用係を引き受けていた)に頼んで、あんパンを慶喜に届けることを確約させたのでした。
山岡鉄舟という人物
江戸に生まれ、のちに一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる剣の達人。
幕臣として徳川慶喜から直々に使者として命じられ、単身で西郷と面会して主君のために命懸けの交渉をし、江戸無血開城の立役者となっています。その後、明治政府において、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、天皇の侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任しました。
鉄舟は誰にでも同じように目をかける男でした。
「金を用立ててほしい」といわれれば、できるだけのことをして貸し、借金の保証人も気軽に引き受けたそうです。そのため貧乏で、居候も後を絶たず、俸給はすぐに消えました。
しかしそんな鉄舟のまわりには人が集まり、多くの人に好かれていました。
また、西郷隆盛から「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛されています。
明治6年の皇居炎上の際、鉄舟は屋敷から皇居に駆けつけて天皇を救出し、天皇の信任は一層厚くなりました。
明治天皇にあんぱんを献上するという機会が生まれたのは、このような山岡鉄舟の人徳によるものだったのです。
いかがでしたか?
日本人になじみ深いあのあんぱんには、このような歴史や人と人とのやりとりがあったのですね。
歴史に思いを馳せながら木村屋のあんぱんをほおばるのもいいかもしれませんね。
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